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【郷土糸島の偉人たち11】松本 三郎
更新日:2021年4月16日
郷土愛が強く、就職難の時代に糸島高校の卒業生を、旭光学工業株式会社に多数採用するなど、常に母校のことを気に掛けていた
「若者に勉学の道を」松本奨学会初代理事長 ペンタックス生みの親
1908(明治41)年、糸島郡今宿村横浜(現・福岡市西区)に生まれた松本三郎。1922(大正11)年に旧制糸島中学校(現・糸島高校)に入学したが、父が営む事業の経営が傾き、2年で退学を余儀なくされた。父の死後、母と妹を連れて上京。親戚のレンズ工場で働くことになった。この会社が、旭光学工業(資)で、後に国産初の35ミリメートル一眼レフカメラ「アサヒフレックスI型」を開発する旭光学工業株式会社〈1938(昭和13)年設立〉の前身である。
松本は「誰でも作れるものは長続きしない。他人がやらない物を作ろう」と、主流だった二眼レフではなく、「一眼レフ」に狙いを定めた。1952(同27)年に「アサヒフレックスI型」を、1957(同32)年には、世界で初めてクイックリターンミラーとペンタプリズムを両方搭載した「アサヒペンタックス」を発売。プロの写真家用だった従来の一眼レフが、急速にアマチュアにも浸透し、「PENTAX」ブランドで世界にその名をとどろかせたのであった。
一方で、経済的理由により旧制中学の退学という苦い経験を味わった松本は「郷土の子弟が安心して勉強できるように援助したい」との思いから、1961(同36)年に母校である糸島高校へ私財1000万円を寄付。現在の1億5000万円に相当するこの財源で、「財団法人松本奨学会」が発足した。
松本奨学会は高校入学から大学卒業まで一貫した貸与が特徴で、「向上心に燃える若者に勉学の道を」という強い思いがうかがえる。また、奨学生は当初、糸島高校の生徒や同校卒業の国公立大学の学生に限定されていたが、「広く郷土の人材を養成したい」という方針から、糸島農業高校の生徒、さらには、今宿以西の福岡市・糸島郡内に居住する者まで対象が広げられていった。
バブル崩壊のあおりを受け、同会は2008(平成20)年に解散。設立から47年の間に、松本一族からの寄付は、総額1億円にも及び、323人の奨学生に学びの機会を与えた。また、残った約4500万円は教材のために使われ、糸島高校や糸島農業高校、旧糸島地区の小中学校に楽器などが贈与された。
松本は1978(昭和53)年に急逝。生前の功績をたたえられ、政府から「正四位勲二等瑞宝章」が追賜されている。
糸島農業高校の「糸農会館」。出身校こそ異なるが「郷土有為の人材育成のために」と松本は、建設費の一部を寄付した。2階は「松本寮」と呼ばれ、現在も多くの生徒が利用している