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【郷土糸島の偉人たち10】松永 冠山
更新日:2021年2月15日
特にお気に入りだったという雷山を写生した作品と冠山(冠の「寸」は「りっとう」)
「糸島美術協会」設立者 日本画家の巨匠
大正から昭和中期にかけて活躍した日本画家・松永冠山(本名・松永関蔵)は、子どもの頃から絵を描くことが好きで、風景画や武者絵などを暇さえあれば描いていた。
関蔵は、1894(明治27)年に怡土村井原で生まれ、5歳以降は加布里村岩本で育った。画家としての非凡な才能は、周囲に知られるほどだったが、高校は、母親のすすめるまま農学校(現・糸島農業高校)に入学。しかし、画家になる夢を諦めきれなかった関蔵は、1911(同44)年に周囲の支援を受けて京都市立美術工芸学校絵画科に入学し、夢への第一歩を踏み出した。
その後、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)本科に進学。ここで生涯の友となる福田平八郎と出会う。「卒業の時、2人そろって文展*に出品しよう」と約束した関蔵は、下宿近くの雪景を写生した『清境』を完成させた。4年生の秋、見事に共に入選。早くも一人前の画家として、お墨付きを得たのだった。
翌年、同校の研究科に進学し、出品した『夕陽』も見事入選。2年も続けて帝展*入選という朗報に、郷土糸島でも後援会や画会ができるなど、盛り上がりを見せた。
卒業後、兵役や結婚を経て、1925(大正14)年に『唐津街道』が入選。深江松末の水田風景を写生したこの作品は、「特選級」と周囲から高評価で、関蔵自身も特選を受賞するものと思っていた。しかし、画壇・画塾の派閥による特選の奪い合いで妨げられたことを知ると、関蔵も遅ればせながら画塾に入塾を決意する。
1930(昭和5)年、2年かけて完成させた『行く春』も入選はしたものの、またしても派閥争いにより特選を逃す。その後も、作品の破損やアトリエの焼失、さらには原因不明の失明など関蔵の失意は続く。〈失明は、1935(同10)年に全快〉
第2次世界大戦が激化し、1944(同19)年に故郷糸島へ疎開。以降、福岡を拠点とし、日展委員や福岡県美術協会常任理事などを務める傍ら、講師として教壇に立った。
1950(同25)年には、彫刻家・原田新八郎らと共に「糸島美術協会」を設立。糸島地域をはじめ福岡の美術界をけん引し、その美術文化は現在も受け継がれている。
官展*入選6つ目となる作品『行く春』(現在は福岡県立美術館が収蔵)。 山の作品は、草花や動物、山など自然の風景を描いたものが多く、工夫を凝らした構図と細やかな色使いが特徴
*文展および帝展は、かつて開催されていた、政府主催の美術展覧会(官展)のこと。現・日展。
広報いとしま 松永冠山特集
2020年の広報いとしま2月1日号で、巻頭から7ページにわたり、松永冠山について特集を掲載しています。