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【郷土糸島の偉人たち09】増田 顕邦

更新日:2021年2月1日

増田顕邦01

日刊工業新聞社の社長に就任した増田顕邦

剛直な気迫と実行力 日刊工業新聞社社長

増田顕邦は、1904(明治37)年3月17日、志摩村野北(現・志摩野北)に生まれた。成績優秀だったが、6歳の時に父を亡くしていたため進学を断念。桜井高等小学校(現・志摩中)を卒業すると、博多(福岡市)の酒店で働き始めた。

向上心あふれる増田は、技術や専門の知識を身に付けたいと考えるようになり、14歳の時に三井三池鉱業所(大牟田市)の社員養成所に入所。そこで、雑誌や新聞に興味を持つようになった。

関東大震災の翌1924(大正13)年、増田は復興の力になりたいと上京し、東京市役所公園課に入庁。しかし、新聞・出版事業への憧れを捨てきれず、株式会社日刊工業新聞社に入社する。入社後数年で事業部長に昇進。さらに理事、調査局長へと栄進した。

しかし、時代の波が増田を襲う。太平洋戦争が勃発し、軍の新聞統制は厳しくなった。新聞は次々と統合され、日刊工業新聞社にも他社との合併話が出始める。増田は存続のために奔走したがかなわず、自ら退職した。

1945(昭和20)年、敗戦直後の日本は荒廃していた。増田は、祖国が自立するためには、「工業」を再建・発展させ、貿易の振興を図るべきと考え、「日刊工業新聞」の復刊を決意した。

ここから増田の快進撃が始まった。株式会社工業新聞社を設立し、終戦1カ月後には「工業新聞」第1号を発行。工業新聞はみるみる部数を伸ばし、従業員数は約500人となった。1950(同25)年2月には、旧日刊工業新聞社と合併した日本経済新聞社の了解を得て、「日刊工業新聞」の題字を継承し復刊。念願の株式会社日刊工業新聞社を創立し、初代社長に就任した。朝鮮戦争勃発に伴い、同紙の読者はさらに激増。工業界、産業界において唯一の総合工業専門紙としての地位を確立し、1959(同34)年10月の藍綬褒章受章を始め4つの褒章を受章した。

社長就任後、桜野小学校(母校の野北小と桜井小の合併による)の校舎が老朽化し、建て替えを迫られていたにもかかわらず、村が財政難に陥っていることを知る。自己の経験から教育の重要性を深く認識していた増田は、1962(同37)年5月、小学校建設費として1000万円(現在の約5000万円*に相当)を、翌年6月には内容充実費として100万円を寄贈。郷土子弟の育成にも力を入れた。

1965(同40)年9月26日、心筋梗塞のため61歳で逝去。日本の工業と郷土糸島の発展に尽力した人生だった。

*企業物価指数を基に貨幣価値を概算した額
   

  • 増田顕邦02

    昭和37年11月3日、増田の徳を顕彰するために、桜野小の敷地内に「増田顕邦氏頌徳(しょうとく)碑」が建てられた

 

 

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