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【郷土糸島の偉人たち08】原田 大六

更新日:2020年12月26日

原田大六01

昭和40年、平原弥生古墳の発掘調査を行う原田大六

日本国家の起源は糸島にあり! 不世出の考古学者

 

1917(大正6)年1月1日に糸島郡前原町(現・糸島市)に生まれた原田大六。1931(昭和6)年、原田が旧制糸島中学校(現・糸島高校)3年の時に、東洋史の授業で「糸島郡の遺跡や遺物が日本考古学上重要な意義を担っている」と学び、古代史に目覚めた。原田は暇さえあれば糸島郡内の遺跡を巡り、膨大な量の土器・石器などの遺物を採集。当時の校長はその情熱に心を打たれ、特別に郷土室(糸島高校郷土博物館の前身)を作った。
 
1947(同22)年、九州考古学の祖といわれる中山平次郎博士に師事し、論理学を基礎とした歴史学を学ぶ。1949(同24)年、原田は日本で初めてとなる支石墓(ドルメン)を三雲曽根原の石ヶ崎で発見。これは日本考古学史上の大発見だった。原田は後に沖ノ島祭祀遺跡(宗像市)の発掘調査を行うなど活躍を続けた。当時の考古学界では「弥生時代の近畿地方の勢力が段階的に発展し、同地に古墳文化を樹立した」という考えが支配的だったが、原田は「鏡・剣・玉の三器を尊重する北部九州の勢力が大挙して西から東へと移動し、近畿に古墳文化を樹立した」という師、中山博士の学説を証明すべく孤軍奮闘。その舌鋒の鋭さから付いたあだ名が「ケンカ大六」だった。
 
1965(同40)年、原田は「平原弥生古墳」と運命の出会いを果たす。同古墳からは、日本最大の内行花文八葉鏡4面(現在は5面とされる)や後漢期の方格規矩四神鏡など計39面(現在は40面とされる)の白銅鏡が無数の破片となって出土。原田はこれらを、私費を投じて自ら復元した。

原田は「鏡・剣・玉」を中心とした多数の出土遺物などから、同古墳の被葬者は日本神話で語られる天照大御神と推定。「日本神話の舞台は弥生時代の北部九州!日本国家の起源は糸島にあり!その証拠こそ平原弥生古墳である!」という原田学説を打ち立てた。

1985(同60)年、伊都歴史資料館(伊都国歴史博物館の前身)の建設と原田の初代館長就任が決定するも、就任前の同年5月27日、脳梗塞により68歳で逝去。1987(同62)年、資料館の開館に伴い原田の銅像が建立され、2006(平成18)年には平原弥生古墳の出土品が一括して国宝に指定された。

「糸島を愛する人よ、ゆめ伊都国の誇りを忘れることなかれ」。不世出の考古学者、原田大六の遺したこの言葉が令和の世に響く。
 

  • 原田大六02

    昭和31年、最大の理解者となるイトノと結婚した原田は物心両面で支えられ、それまで以上に研究に没頭した

 

(写真提供:原田大六記念館)

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