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【郷土糸島の偉人たち07】原田 新八郎
更新日:2020年12月1日
友人を大切にしていた原田。生徒たちからも慕われていた
郷土の人々のため活動した日展作家 彫刻家
彫刻家・原田新八郎は、1916(大正5)年11月、糸島郡前原町(現・糸島市)に生まれる。フランスの彫刻家ロダンに憧れを抱いていた原田は、糸島中学校(現・糸島高校)を卒業後、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。齋藤素巖に師事し、在学中に『若い女』が新文展に入選し、本科の卒業制作は正木賞を受賞し、東京美術学校に名品として買い上げられるなど、多分に才能を発揮させていった。
卒業後は郷里に戻り、高校や中学、大学などで教鞭を執る傍ら日展への出品を続け、1956(昭和31)年の『働く人』、翌年の『漁婦』が日展特選を連続して受賞。1962(同37)年からは日展審査員を務めるなど昭和期の彫刻界に大きな足跡を残した。
また、日本画家・松永 山らと共に、1950(同25)年の「糸島美術協会」設立に尽力。糸島の芸術文化の礎を築いた。
官展で数えきれないほどの入選を果たし、郷里での芸術文化の普及、後進の育成など、精力的に活動し、輝かしい功績を残した原田だが、創作活動ができない時期もあった。戦争により、23歳と28歳の時に応召。芸術どころではない時代を乗り越えた原田は「造形することの喜び、教壇に立てること、真実と人間的感動への発展が妨げられることのないことは、誠に幸いである」と語っている。
故郷や友人を大切にする人柄、造形のテーマでもある「人間の生きざま」から、原田は市内に多くの作品を残している。恩師である齋藤素巖から東京での活動を勧められたこともあるが、原田が再び上京することはなかった。「東京に出たら名が売れ、作品は高い値段で売れるかもしれないが、金持ちの庭や蔵に作品が埋もれるより、お金にならなくても一人でも多くの人の慰めになる作品をつくりたい」と語っている。
1960(同35)年、JR筑前前原駅前に『母子像』を寄贈(現在、JR糸島高校前駅南口に移設)。同作品は、原田の日展委嘱作家昇進と糸島美術協会創立10周年を記念して制作された街頭作品で、「観光と農村都市・糸島」の平和と繁栄の願いが込められている。1986(同61)年には前原町に作品と土地などを寄贈。現在の伊都郷土美術館が開設された。そのほか、糸島市役所や志摩中学校など、市内に原田の作品が点在し、原田の気質である「地方・ローカル色の誇り」が人々の心を癒やし続けている。
制作風景。労働に励む姿など、人生に真摯に向き合う人々を表現した作品を多く残している