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【郷土糸島の偉人たち04】甘蔗 大吽
更新日:2020年9月1日
青年時代の托鉢姿の大吽。「糸島免囚保護会」の袋を首から下げている
刑余者を自立更生に導いた 糸島保護区保護司会の祖
罪を犯した人の更生を助け、犯罪を予防する活動をする保護司。「糸島保護区保護司会の祖」といわれているのが、甘蔗大吽である。
大吽は1883(明治16)年2月20日、糟屋郡青柳村(現・古賀市)で誕生。貧しさ故に、13歳で明光寺(福岡市博多区)に小僧に出され、糸島に移り住んだのは24歳の時。喜久寺(有田)の住職として赴任し、2年後に長音寺(志摩松隈)の前住職・甘蔗円成の養女タキノと結婚。長音寺を継いだ。
当時は、ヒューマニズムやデモクラシーが起こる日本の思想の転換期。文学好きだった大吽は、住職を務める傍ら文学講演会などに足を運んだ。そして次第に「仏教の教えを広めるだけでなく、社会に奉仕することこそ仏弟子の天職ではないか」と社会意識に目覚めていったのであった。
大吽は早速、福岡監獄署(現・福岡刑務所)の布教師となり、三日にあげず訪問。罪を償う人々を慰問し、激励し続けた。やがて、晴れて社会に復帰できる人が出始めるが、「刑務所帰り」と言うと、世間の目は冷たい。どうすれば彼らを真に更生・自立させられるだろうかと悩んだ大吽は、思い切って彼らを寺に引き取る決心をした。こうして、1人の刑余者を初めて迎え入れた。1 9 1 0(同43)年のことであった。
彼は眠りに飢え、食に飢え、愛に飢えていた。大吽とタキノは、家族同然に彼と接した。その後も刑務所から、釈放するので迎えに来てほしいと通知が来ると、わが子を迎えに行くような気持ちで出掛け、刑余者を受け入れていった。
こうした甘蔗夫婦の様子を初めは白い目で見ていた村の人々も、その熱心な姿に心を打たれずにはいられなかった。同志が続々と集まり、同年2月11日に「糸島仏教青年会」を設立。事業の一つとして「糸島免囚保護会」をつくり、さらにこの事業を助ける賛助会ができるなど発展を続けた。この会が現在の「糸島保護区保護司会」へとつながっているのである。
大吽が生涯をかけて支援した刑余者の数は、間接保護約600人、寺への引き取り60人に上る。「一人では何もできない。しかし、一人がやらねばならない」。大吽は自身はもちろん、妻タキノや文学会・青年会などの仲間と共に、身をもって世に道を説いた、愛に満ちあふれた人であった。

1961(昭和36)年2月11日に、長音寺(志摩松隈)に建てられた記念碑