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【郷土糸島の偉人たち03】岡部 平太

更新日:2020年8月1日

偉人03岡部平太

米国留学中にアメリカンフットボールで活躍した岡部平太

福岡の、日本のスポーツ発展に貢献 平和を愛した偉人

昨年のラグビーワールドカップは日本中を熱狂させ、互いの健闘をたたえ合う精神が感動を呼んだ。スポーツでは「争う」ではなく「競う」という言葉をよく使うが、「スポーツは競うもの」という信念を持ち続け、スポーツと平和のために尽力した糸島出身の偉人がいる。1891(明治24)年、糸島郡芥屋村(現・志摩新町)に生まれた岡部平太である。
岡部は、幼い頃からスポーツ万能だった。学生時代は柔道の達人として名を上げ、柔道の国際化を進めるために米シカゴ大学に留学。アメリカンフットボールやボクシング、スキージャンプなどを経験し、技術やトレーニングなどの知識を日本に持ち帰った。帰国後は、日本のスポーツ発展のためコーチとして活躍。1938(昭和13)年には、1940年東京オリンピックの陸上コーチに就任した。
しかし、1940年東京オリンピックは実現しなかった。日中戦争の真っただ中だったからだ。さらに戦争は、岡部の大切なものまで奪った。長男の平一である。1945(同20)年、平一が特攻隊員として戦死。岡部の反戦・平和への思いはより強くなった。
そんな岡部に1947(同22)年、福岡市長から1948年の国民体育大会開催の相談を持ち掛けられる。
戦後間もない福岡には大会用の会場がない。準備委員長に就任した岡部は、当時連合国軍総司令部(GHQ)が接収していた土地に目を付けた。何度も交渉し、ついにG H Qは土地を返却。さらに、当時は困難であった日の丸の掲揚を認めさせた。
返却された土地に岡部が造った「平和台陸上競技場」。そこには日本のスポーツ発展と平和への願いが込められている。
岡部は強固な意志を持ち、反骨精神にあふれ、納得のいかないことにはとことん抵抗した。そのため、岡部は常に表舞台で活躍できたわけではなく、功績を示す像や記念碑も少ない。しかし、どんな苦悩にも自身の信念を曲げずに立ち向かった。
2 0 2 0 年東京オリンピックは延期となってしまったが、岡部も日本でのオリンピック開催とその成功を願い、さらに平和とスポーツの発展を望み、見守っているに違いない。

偉人03日章旗

1948(昭和23)年の福岡国体で実際に掲揚された日章旗。伊都文化会館に展示されている

広報いとしま 岡部平太特集

2019年の広報いとしま3月1日号で、巻頭から9ページにわたり、岡部平太について特集を掲載しています。

 

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