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【郷土糸島の偉人たち02】大原 研介
更新日:2020年7月1日
雷山大溜池が完成した昭和19年の大原研介(中央)とその家族
強固な意志と実行力で 雷山大溜池を築造
旧雷山村村長・大原研介は、「巨人」「豪放磊落」「県下に知られた名物村長」など多くの異名を持つ。その大原が成し遂げた最大の偉業が「農民百年の計」として挑んだ雷山大溜池の築造である。
1888(明治21)年、香力の裕福な農家に生まれた大原は、雷山村役場に長年勤務した後、1932(昭和7)年に助役に就任した。
1934(同9)年、糸島一帯で深刻な干害が発生。3カ月間日照りが続き、田植え期の水田を干上がらせた。農家は追い詰められ、親類ですら水一滴を巡って争うという有様だった。そこで翌年、雷山大溜池の築造計画が持ち上がり、大原は築造委員長となった。県知事会での議決を経て、12月に起工する予定であった。
ところが、溜池を築造すると香力地区の水田の大半がつぶれる。もともと水利に恵まれた当地区にとっては失うものの方が大きかった。反対運動が勃発し、中止に追い込まれる事態となった。
大原は再三にわたり説得に奔走したが妥結には至らず、農民を救うために必死になればなるほど地元では「売郷奴」の扱いを受ける、つらい立場となった。一方で、一歩外へ出れば村じゅうの熱烈な応援と期待が大原へ寄せられた。大原は大いに苦悩したが、それでも諦めなかった。
1938(同13)年、転機が訪れる。糸島出身の代議士・簡牛凡夫の力添えもあり、ようやく和解の日を迎えたのだ。深夜の調印式で、大原は涙を流しながら感激の挨拶をした。
工事自体も難航した。日中戦争の激化で、若者は次々と徴兵され、労働力不足や物価高騰の状況が続いた。1939(同14)年、雷山村の村長に就任した大原は、忍苦の末、ようやく水路を掘るまでにこぎ着けた。水路を自宅の下に通し、家族と共に自ら家を取り壊したという。
こうして終戦間際の1944(同19)年、雷山大溜池が完成した。灌漑面積は約1000町歩(ha)。当時、県内最大の溜池だった。
事業を完遂させた大原は、1945(同20)年に村長を辞任。翌年に脳出血で倒れ、帰らぬ人となった。58年の波乱の生涯だった。当時の糸島新聞は、「故人の思い出深い雷山大溜池の池畔で、組合葬が行われ、市内外からの多数の参列者が稀有の盛大を極めた」と報じた。
76年を経た今も、糸島の風景を映し出す美しい水田が、大原の功績を静かにたたえている。
堤長240m、貯水量115万立方メートルの雷山大溜池